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Channel: スポーツナビ+ タグ:ネッツァー
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20分間だけのワールドカップー名選手とその時代ー【ギュンター・ネッツアー】

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ドイツ代表の優勝に大きく貢献した、バイエルン・ミュンヘンのトニ・クロースがレアルマドリーに移籍しました。レアルに移籍した技巧派のドイツ代表MFといえば、近年ではブレーメンから移籍したエジル(現アーセナル)が記憶に新しい。歴史をたどると銀河系軍団におけるドイツ人司令塔の先駆けは、1970年代に天才の名をほしいままにして皇帝ベッケンバウアーとしのぎを削ったドイツサッカー界のレジェンド、ギュンター・ネッツアーでした。当時、スペインのみならず世界のサッカーファンを熱狂させたネッツァーは、ワールドカップのピッチで光り輝くことはありませんでした。現在では、ネッツァーの名を知らない日本のサッカーファンも少なくありません。ドイツサッカー黄金期の中、なぜドイツ代表史上最高の才能はワールドカップ史にその名を残せなかったのか?今回は、kaiser2号のドイツサッカークロニクル特集から、悲運の「ボールの反逆児」の足跡をたどります。構成/kaiser編集部ボルシア・メンヒェングラートバッハ最強チームの司令塔として 1970年代の初頭、世界中のサッカーファンにとって、アイドルといえばフランツ・ベッケンバウアー、ジョージ・ベスト、ヨハン・クライフという名と並んでギュンター・ネッツアーを挙げる人も多かった。日本でも1969年に彼が所属するボルシア・メンヒェングラードバッハ(以下ボルシアMG)が来日したこともあって、当時のサッカー少年たちの胸を焦がしたものである。1973年のサッカー専門誌『イレブン』の2月号の新年の特集が「来日するか 胸もときめく西独ナショナル・チーム」と題して、初夢代わりと断ってカラー特集を組んでいるが、その巻頭を飾っているのがベッケンバウアー、ゲルト・ミュラーではなくネッツアーだった。当時は世界のサッカー情報は現在とは比較にならないほど限られてはいたが、それでも長い金髪をなびかせてボルシアMGの、そして西ドイツ代表の中盤を支配したこの選手は、まぎれもなく多くのファンの心をとらえて離さなかったのだ。まだ記憶に新しい1970年のワールドカップには出場しなかったにもかかわらずである。 ギュンター・ネッツアーは1944年9月14日、オランダ国境に近いヴェストファーレン州メンヒェングラートバッハに生まれた。生後5日目に町は連合軍の空襲を受け辛くも生き延びたが、世代的には瓦礫の中でボールを蹴り始めたベッケンバウアーやミュラーらと同世代に属する。ただ彼らと異なるのは、のどかな田舎町で食料品店を営む比較的裕福な家庭で育ったこと。ネッツアーは自分の店で売っていたゴムボールをよく持ちだし仲間たちとサッカーに興じた。早くから少年チームで頭角を現し、父親は一人息子のために自宅の裏庭に小さなサッカーグラウンドを作ってくれるというように恵まれた環境でのびのびと成長した。 9歳のときに地元の1FCメンヒェングラートバッハに入り、その後10年間プレー。彼の挙げた得点数はチーム全員の得点数をはるかに上回った。1963年19歳でユース代表に選出されここでデットマール・クラマーから指導を受け、技術的なことに増して、ともすれば甘やかされて育った自己中心的な性格を鍛えられ、メンタルの強さ、闘争心を叩きこまれた。当時ブンデスリーガはまだ結成されたばかりで、ネッツアー自身はブンデスリーガにすでに加盟していたデュッセルドルフ入りを望んだが、リーガ加入を目指す地元の地域リーグチーム、ボルシアMGの熱心な勧誘を受けて入団を決める。同期にベルティ・フォクツという小柄だが闘志あふれるハードマーカーがいて、二人は後にチームの隆盛とともに世界的な名声を勝ち得て行くことになる。 チームは翌年ヘネス・バイスバイラーを新監督に迎えた。バイスバイラーは代表監督のゼップ・ヘルベルガーの下でコーチとして指導にあたっていたが、代表はもう一人のコーチ、ヘルムート・シェーン(後の’74年W杯優勝監督)に任せて、一地方の無名クラブの監督に就任したのだった。バイスバイラーはネッツアーのプレーを見てすぐにゲームメーカーとしての役割を与え、彼中心のチームを作り上げる。翌’65年にブンデスリーガに昇格し、ネッツアーの名はドイツ中に知れ渡った。バイスバイラーは守備重視が主流だった当時の風潮に抗して「0-1で負けるより、5-6で負ける方がいい」と公言する攻撃的なサッカーでたちまちドイツ中の観客を魅了した。ユップ・ハインケス、ヘルベルト・ヴィンマー、ベルティ・フォクツといった若い才能が開花、その中心は何と言ってもセンチメーターパスと呼ばれるほどの正確無比なロングパスを繰り出し、ゲームから消えたと思ったとたん相手ゴールの前で意表を突く飛び出しでゴールを決め、常に広い視野でゲームを動かせるギュンター・ネッツアーに他ならなかった。ボルシアMGは1971年についにリーグタイトルを奪取。翌年も連覇を果たし黄金時代を迎える。ユニフォームの色から“グローセ・グリュン・ウント・ヴァイス”(偉大なる緑と白)と称され、この常勝軍団はライバルのバイエルン・ミュンヘンと人気を2分するまでになった。1971年のチャンピオンズカップではイタリアの名門インテルを7-1と粉砕し(残念にもこの試合は観客が投げた空き缶がインテルのボニンセーニャを直撃したため無効試合になった)、その強さは世界にとどろき渡った。ネッツアーはボルシアMG在籍中、230試合に出場し82得点。’72年、’73年と2年連続でドイツ年間最優秀選手賞を受賞という輝かしい実績を残し、チームに貢献したのである。 ネッツアーはピッチの外でも常に注目を集めた。赤いフェラーリやジャガーを乗り回し、副業でディスコを経営する。美しい恋人とのツーショットはメディアを賑わせた。その派手な私生活に古い世代の人間は眉をひそめたが、当時’60年代後半からの若者たちの間を席巻した反体制の機運から若い世代の支持は絶大で、いつしか「ボールの反逆児」のレッテルが貼られてしまった。現在ではプロとして当然だが、当時は金もうけのために他のクラブへ移籍することを良しとしないムードが未だ根強かったが、逆にネッツアーの上昇志向は田舎の一クラブにとどまるのを良しとせず、多額の報酬とともにスペインのレアル・マドリッドの移籍を決めることになった。

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